昭和42年03月09日 朝の御理解
いよいよ、信心の喜びを深めていくために、謙虚な信心が必要だと思います。不思議に、例えば、喜びを頂いておりましても、喜びがあっても、信心が怠慢になりましたり、又は、慢心が出てまいりますと、その喜びが消えていくものです。椛目の上にも様々な意味合いにおいて、御造営は御成就に近づいたと。中心である私の信心の検定のことも、大体、確実だと思われる。いわゆる、教師検定試験が合格したと。
何かにこう、あれこれを思い合わせて見ます時に、いうならば、調子が出てきたというか、調子にそれに乗り過ぎる様な、雰囲気があるのでございます。ですから、いよいよ、只、そこんところを慢心しないというだけではなくて、いよいよ、自分達の本当にこういう様なことで、と いう様なものを、自分の心の中に、銘々が発見してです。もう、本当に相済まんという謙虚な、日々を過ごさせて頂かなければならない。
折角の大変なおかげを、喜びの伴わない喜び事にしてしまっては、相済まんことでございますからね。只調子に乗った喜び、はぁよかったよかったとかはぁ素晴らしい、素晴らしいとか、というだけのものではなくて、それに本当にあの深ぁい目出度いというものを、伴うおかげを頂くためにも、どうしても、いよいよ、謙虚にならせてもらう。それも只、あぁいいえつまりませんと、こう形だけで言うのではなくてです。
自分の心の底から、とにかく、私の様な、こういう状態でという様な、自分自身を見極めてです。も本当に、頭を下げておらなければおられないという様な、私は謙虚な、そこから喜びが、尽きぬ喜びになってくるとこう思うのです。いわゆる、深ぁいところから沸いてくる、しみじみとした喜びが頂けると思うのです。、そこんところをひとつ消さん様に、消やさん様にひとつおかげを頂いていきたい。
善導寺の親先生のご都合もあって、十三日の奉祭式が、丁度、星野教会の大祭にあたるのでございます。それで出来ません。同時に又、こちらの、大工さんの方も、少し、それでは、こう時間がなさそうにあるし、又、他にも表の入口の石材屋さんが入るのも、何日か遅れておるといった様なことになりましてから。夕べ、遅うまで、高橋さんと委員長の秋永先生と検討した結果、塗板に掲示してあります様な。
今度、いよいよ確実だろうと、それで、色んな準備も、大体完了しとるのでございますから、十三日会だけは、あちらで開かせて貰う。そして、その時も十三日会も最後の仕上げ的な、お掃除などもさせて頂いて、そして、十八日のお月次祭の日に、お月次祭に合わせて、奉祭式を取り行なわせて頂こうという様なところになっとります。今度は、二十八日はもう、万難を今度は配して。
奉祭が出来、あちらにお移りが出来る。そのために、ずうっとこう大掃除やら、移転やら、もう、のことやらも日にちがずれておりますので、今日は、大体、あちらへ荷物を運ぶはずであったのが、荷造りしてある分だけを、昨日、青年会の方達何人かでなさることになってですね。そして、十日の月次祭を頂き終わって、色々あすこに、塗板に書いてあります様な、行事が日々あるわけでございます。
それで、本当に、最後の言うならば、仕上げでもございますし、最後的段階ですから、確かに、皆な、銘々が忙しいことは、忙しいんでございますけれども、どうぞ、銘々の個人の忙しいのは、それこそ先に延ばしてでも、ここんところに当たらなければです、もう、幾日かのことでございますから、まとまりがつかんだろうとこう思います。ですから、そういう中に、神様が、いうならば。
十日間、日にちを下さったような気がするんですよ。そして、その十日間を私は、今朝から思うのに、いよいよひとつ謙虚にならなければおられない自分を、一つ発見してですたい。謙虚というが、平こらなければおられない自分というものを、一つ発見してです。 そして、その神と氏子とが、ままになるのぞと仰る様な意味合いにおいてです。私も教師の資格をもって、あの、新お広前に臨まれる。
皆さんも、あの、お広前にのぞませて頂けるために、心の底からわいてくる喜びをもって、あちらに移る事が出来るというおかげを頂くためにです、いわゆる、本当、底の底から沸いてくる喜びをもって、私共は、そのことを行動し、そのことに移っていきたいというふうに思うのですよ。ですから本当に、いゃあ素晴らしかばっかりの意味のことではなくてですね。
本当にこれがどういう様なところから、どういう御神意のもとに、これがなされていきよるのか。どういう、神様の深い深い思いがあれもこれも、一時に成就してくるという様な一辺に花が咲いて、しかもそれに梅の花であるならば、ウグイスが来て止まる様なおかげが頂けておるのか、そこのもとのところを一つ、思わせて頂いて、いよいよ、けんきょな一日をです。十日間でございますから。
その十日間を、そういう気持ちでおかげを頂きたい。又、そういう期間を、私共に下さった様な気がするのです。丁度、十日間。どうぞ、只、只その、形の上に謙虚さといった様なものでなくてですたい。自分の、これの中にそれを発見しなければです。とても、本当に恥ずかしゅうして、可笑しゅうして、人ん前で、ものでん言われる自分じゃない。はぁ親先生、親先生なんて言われて、皆んなが本当に言われてから。
穴ん中にでも入りたいごたる自分という様なものをです。自分の心の中に発見いたしますとですね。その威張りもしますまいけれども、私は愈々しみじみとした底の底から感じられる謙虚さというものが、にじみ出てくる様なものそこから沸いてくるもの、そこに神様が与えて下さるもの。もうどんなに喜びをあっても持っておってもです。慢心を致しましたり、調子に乗り過ぎたり致しますと、慢心というものは、不思議にかき消す様に消えていくもんです。
皆さんも、体験があることでございましょうけれども。どうぞ、ここんところの調子に乗り過ぎらん様な、おかげを頂くと同時に、もう、のりすぎるだんのことじゃない、本当に、一歩一歩薄氷の上を渡る様な気持ちで、という様なものがです。自分の心の中に頂けれる様な、おかげを頂きたいと言う風に、本当に乞い願わせて頂いとるのでございます。皆さんも、どうぞそのつもりでおかげ頂いて下さいます様に。
どうぞ。